最近、ある人の研究発表を聞いた、メキシコシティー中心地の都市再開発に伴うマイノリティーに関するものであった。
少し僕なりに紹介すると、1521年スペインはアステカ王国征服後、首都テノチティトランに征服の証として、破壊したアステカ神殿の石材を用いスペイン風の都市を建設した。セントロと呼ばれるそのメキシコシティー歴史地区には、
16世紀の建造物がほとんど現存し、1987年にはユネスコの遺産に登録されている。しかし建物の老朽化と市の中心地の移転
により地区全体が荒廃し、スラム化していた。2002年から始まった再開発(建物の外観は残し内部を改装するリノベーション
手法を用いた。)により、街の活性化や観光客の招致にも成功した。
しかし一方で再開発により、地価の高騰など都市のジェントリフィケーションが進み、そこに住んでいた人たちは、
立ち退きを余儀なくされた。
再開発がある人にとって「場所の創造」であると同時にまたある人にとって「場所の喪失」をもたらすのである。
メキシコは1821年に独立するまでスペインの植民地であった。その歴史的経緯から人々の間には生まれながらの根強い
階級差がある。「場所の喪失」はマイノリティー(社会的弱者)に地域のコミュニティーの破壊をはじめ、社会的、精神的に
大きな打撃をあたえてしまう。というものであった。
僕は、今の我々が抱えている社会問題に通じるものがあると思ったのです、さまざまな社会のひずみの元をたどれば
明治維新以降急速にすすんだ経済のグローバル化(再開発と似ている)とそれに伴う地域社会の解体と教育力の喪失、
そして個人の孤立化と存在感の希薄化(精神のグローバル化がついていけない)に大きな原因があると思います、
例えば格差社会といいますが、もちろん機会は均等であるほうがいいのですが、人には意欲、能力、努力の差があるのに
結果として社会に格差ができないほうが不公正でしょう。問題なのは格差があることではなく、居場所が無いことでは
なかろうか、地位や経済力によらず一人の人間存在として尊重されるコミュニティー、(サラ金には悪いけど)身分に
相応した生活をよしとする社会的コンセンサス、人それぞれの能力、意欲に応じて居場所がある社会を築いていけたら
いいなぁなどと思っています。
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平方友一
<平方晴宏園> (09/03/04掲載) |
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